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田付新助 (初代) : ウィキペディア日本語版
田付新助 (初代)[たづけ しんすけ]
田付 新助 (初代)(たづけ しんすけ (しょだい)、天正9年(1581年) - 寛永9年(1632年))は、江戸時代初期、蝦夷地に進出した近江商人田付新助家の初代。田付景澄の子。屋号は福島屋。
== 生涯 ==
田付家は、佐々木家支流六角氏遺臣の家柄で〔「滋賀県百科事典」(滋賀県百科事典刊行会編 大和書房 1984年)〕〔「近江人物伝」(臨川書店 1976年)〕、天正元年(1573年)織田信長の攻撃により田付氏が籠る田付城(現滋賀県彦根市南三ツ谷町)が落城した〔「近江商人列伝」(江南良三著 サンライズ印刷出版部 1996年)〕。田付新助は、田付落城後の天正9年(1581年)近江愛知郡柳川村(現彦根市稲按司柳川)に生まれ〔〔「近江の先覚」(滋賀県教育会 1951年)〕
〔「北海道『海』の人国記」(伊藤孝博著 無明舎出版 2008年)〕、後には景豊と称した〔。田付は田附とも書かれるが、本稿では『寛政重修諸家譜 第7巻 宇多源氏佐々木支流田付』記載に従い、田付を用いた。
数え14歳で武士を捨て商人を志し、同郷の建部七郎右衛門元重に相談の上、奥羽に赴き松前を調査し、蝦夷地各地を回り豊富な水産資源の将来性に着目した〔〔〔。その後、蝦夷地での事業協力者を故郷である近江柳川村・隣村の薩摩村(愛知郡薩摩村(現彦根市薩摩町))で有志を募り『両浜組』を組織し、近江商人の本格的な松前・蝦夷地進出に道を開いたとされる〔〔〔〔。
慶長7年(1602年津軽鰺ヶ沢、慶長15年(1609年渡島国松前郡福山(現北海道松前町字福山)に店を出し〔〔、自分の船を持ち物産の輸送と販売を始めた〔。これ以降、田付一族は蝦夷西海岸での漁場開拓とともに漁法・漁具の改良、漁獲物の加工・販売に取り組み〔〔〔、松前藩の『場所請負人』として蝦夷地経営に深くかかわった〔。また、漁獲物などの蝦夷地物産の運搬は、松前から日本海航路で敦賀で陸揚げし、七里半越と呼ばれる山道を経て琵琶湖北岸の海津港(現高島市マキノ町海津)に運ばれ、琵琶湖水運により故郷である柳川の港に集積し、その後大阪へ販売を行った〔〔〔〔。柳川港もこのために田付新助により開設されたと言われ〔〔〔、また付近の来向川も新助の開削とされ、のちに灌漑用水路として使用された〔〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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